ねぷたの由来と歴史
ねぷたの起源についてはいろいろな説がある。
ひとつは坂上田村麻呂の伝説。坂上田村麻呂(平安初期の武将)が蝦夷征伐に際し、花や柳の枝を振りかざし、笛や太鼓、ほら貝などを鳴らし、夜には松明をつけて敵をおびき寄せ、ついに勝利を収めたことから始まったという説。
もう一つは津軽為信の伝説。これは津軽を統一した為信が京都に滞留中の文禄2年(1593)7月の孟蘭盆会に、お国自慢の一つにと重臣・服部長門守康成に命じて二間四方の大灯篭を作らせ、京の町を練り歩き『津軽の大灯篭』と遠国にまで大評判
となり、国元でも行なわれるようになったという説。
それにもう一つは農民行事説。
七夕祭りや虫送り、精霊流しの行事と同じように、稲が健やかに成長するこの時期に、邪霊を流し豊作の祈願をする「眠り流し」がねぷた流しに転化したのではないかという三つの説があるけれど、いずれが確かなのかはっきりしない。
ただ、ねぶたが初めて記録に表われたのは弘前藩庁「お国日記」の享保7年(1722)7月6日の条に、五代藩主信寿公が「きょう四ツ半、織座にお成りになった。供回りの者は例の通りで、同所で「祢ふた」を高覧遊ばされた……」とあるが、形については不明である。
天明8年(1788)に江戸定府藩士・比良野貞彦が、当時の御国津軽を見聞して書きしるした「奥民図」の「子ムタ祭之図」を見ると、四角や長八形の灯籠に絵は描かれず、七夕祭、ニ星祭、織姫祭、石投無用などと文字が書かれ、灯籠の上には建物の扇やヤナギの枝、草花などを取りつけ、大きなものはお神輿のように十数人で担ぎ、笛や太鼓の囃子組と宝珠形をした灯籠持ちなどが見られる。これが扉ねぷたの原形と思われる。
また、内藤官八郎の『弘藩明治一縦誌』に、文政年間頃(1818-29)、「三宝の上に大エビをのせ、額とも高さ二間、幅2間…」と、人形ねぷたが作られたようである。特に日本武尊とか楠木正成など天和2年(1682)から始まった弘前八幡宮祭礼の山車の影響をたぶんに受けて、人の目を驚かすような大きな人形ねぷたが作られたようである。
それが明治に人っても続けられたが、明治15年から20年にかけてがらりと変わり、角灯籠の上に飾られていた実物の扇が大きく作られると共に、全体の形から『開き』というものが考案され、現在のようなねぷたに整えられたのである。
ところが明治30年頃の扇ねぷたは団扇ねぷたとも呼ばれ、非常に薄っぺらな形のものである。それは照明となるローソクが非常に貴重なものであったから、絵の蝋書きもおおざ'っぱで、照明も一段一列よりつけられなかったからである。ニ列になったのは昭和に人ってからである。大正時代になると、扇のタメに竹を使い、全体が細長く高い感じを与えた『仲町ねぷた』と、もう一つはタメに木を使い、カーブをゆるやかに開き、全体が丸くて横に広く、ゆったりした感じを与えた『百石町ねぷた』が作られた。そしてこの百石町ねぷたが、そのまま現在も受け継がれて絵柄も(故)石沢竜峡(故)竹森節堂らの影響をうけた絵師たちによって、華麗な衣装をまとった武者絵がのびのびと描かれ、毎年、夏の夜空を彩って、観衆の心を奪っているのである。
(版画と文・工藤哲彦)
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